私は納豆が好きだ

ただアンモニア臭の強い納豆は苦手だ。
そういう納豆はねばねば感も落ちているし、やばいのではないかと心配になってしまう。
 
それはさておき今年は怪談系の番組が少なくてがっかりだ。
やっぱりお盆ぐらいまではそういう番組はないのだろうか。
怪談といえば情念のあるもの、由来のあるもの、びっくり箱的なもの、小咄的なもの、
お化けが出るもの、そして不思議なものがある。
日本ではただひたすらにグロい理解不能系の話は受けないみたいだ。
私もそんなものは読みたくない。
さらに現代になるとひたすらお化けが出るもの、特に幽霊系が多くなり、
聞くたびにまた人の霊かと辟易してしまう。
月が二つあったら昔はタヌキのせいだったのが
いまでは実は人魂だったとか生首だったとかなんかもう読んでてああそうですかと冷めてしまう。
狸が人を化かすのはリアリティがないけど人が死んだら幽霊になるのはリアリティがあるとかなんとか。
まぁそういうことにしておきたい気持ちもわからないではないのだが、
逆に幽霊ではなく死んだ人をまねした化け物とかでも良いのではと思ってしまう。
現代人は人が好き過ぎなのだろうか。
もちろん私も幽霊が出る話で好きな話はいくつもある。
子育て幽霊などその最たるものである。
母親の情念がよく出ていてしかもハッピーエンドである。
まさに私好みだ。
だが、幽霊が出ない話になぜか幽霊が出てしまうのはも追うどうしようもないのか。
十三階段も自分が初めて聞いた話は幽霊は関係なく、単純に一段ずつ階段を上る話だったし、
気味が悪いから皆最上段に来る前に逃げたというまぁ単なる不思議系の話だった。
やはり人前で披露するにはある程度の「スリルとサスペンス」が必要なんだろうか。
最終日だけ入れ替わった人が死ぬ話、最終日他の人もいたけど住人だけがひどい目にあう話、
一段昇ったうらめしやーと声がつく話などなど今でも変化し続けているらしい。
ジワリと近づく恐怖だけでは物足りず、
それに結果を見せることによって恐怖をあおろうという魂胆もあるのだろう。
しかし恐怖の追求だけでは気軽に怪談を聞こうと思えなくなる日が来るのではないか。
落ちが死んだとか行方不明になったとか気が狂ったとか
と、ここまで書いてきた思ったのだが、
単純に自分が怪談を読みすぎたせいなのではという気がしてきた。
数をこなせば好みでないものにもたくさん触れるし、似た話にも触れることになる。
それに人が死ぬのがはやりならどんどん殺してもいい気がしてきた。
どうせお話の中なんだからそれが好まれるのならその方がいいのかもしれない。
昔の話でも例えば唐代伝奇の無双伝なんかも人がばんばん死ぬし。
いやあれは幽霊は全く関係ないけど。
どちらかというと離魂記のほうが好みだな。
体は囚われていても魂は好きな人の所にあるとかロマンティックでいいものだ。
好きな話をもう持っているのにこれ以上求めるのは欲張り過ぎというものだろう。
好きなものだけだと好きな物の相対的価値が落ちてしまうものだし、
このまま好きでないものも容認していくことにしよう。
それを面白いと思う人もいるのだから。