七月八日に生まれて

って映画なかったっけ。
なんかアメリカの独立記念日に生まれた男ががどうとか。
でもアメリカの独立記念日は七月四日だし、覚え違いをしていたのか。
自分は覚え違いがたくさんある。
意味も考えずに覚えてきたツケが来ているのだろう。
それが顕著なのは何と言っても歌であろう。
子供のころは歌の意味なんて気にせずに歌っていたもので、
今改めて歌詞の内容にぎょっとすることもしばしばあるのである。
それとは別に思い違いをしていたこともしばしばある。
荒城の月なんてのは幽霊の宴と思っていたぐらいである。
昔の歌は行間を想像する楽しみがあるのがいい。
たとえばウンパッパ。心の中をのぞける眼鏡があったら便利と歌っている割に、
大人になって毎日ダンスをしたいということを知ることにどれだけ意味があるのだろう。
将来の夢を聞けばそのぐらいわかるだろう。
しかしこれは恋心の為せる業と思うと合点がいく。
子供のときは好きな人のことは何でも知りたくなるもので、
聞き耳を立てて会話を聞いていたりするものである。
何故なら面と聞くのが気恥ずかしいからである。
つまり聞き耳を立てることを心の中をのぞける眼鏡に変えられたらいいのになと歌っているのである。
どんなに澄まして隠してもの件は若さゆえの妄想と取るべきだろう。
ってな感じで日頃考えているのである。実にくだらない。
だがくだらないからこそ楽しいのである。
その解釈があっているか間違っているかが重要なのではなく、
どんなふうに解釈できるかが重要なのである。
真実夭折した子を思う歌であったり、亡き親を思う歌であったり、
恋に破れ死んだ友の歌であっても、そうでない解釈をできるのならそれでいいのではないかと思う。
楽しさの中に悲しみや果敢なさを練りこんだり、
静謐の中に激情を練りこんでいようとも、
聴き手がそれにとらわれる必要は全くないのである。
それぞれがそれぞれに解釈できるのならそれでいいのである。
それが時代を超えて心に残るつまりは自分の一部になった『みんなの歌』というものであろう。