自分ルール

皆さんは自分ルールという言葉をご存じだろうか。
狭義としては自分の自分に拠る自分のためのルールをさし、
広義では自分が勝手に決めたルールをさす。
 
本来は社会性の無い個人的な規則をさしていたが、
独裁的に他者に課す規則をさす事にも使うようになった。
最近できた言葉のように思われる方もいるでしょうが、
この言葉は従来のゲン担ぎやジンクスなどとして使われていたことを
現代的に言いなおしたことであると思われる。
 
なぜならそのルールとその結果による罰または報酬に何ら因果関係がないことが多数だからである。
 
たとえば歩道の白線を踏み外すと地獄に落ちるだとか、
告白に成功すれば謎の彼女Xを買おうとかそういうことである。
白線を踏み外してもそこにあるのは白線のない道路だし、
告白が成功しようが失敗しようが漫画が面白いことには変わらないのである。
いやさすがに告白に失敗したら恋愛漫画は読みたくなくなるかもしれないが、
告白する前に読んでしまえばいいだろう。
むしろリスクのある行為を伴うのは合理性が低いと断じるべきではないだろうか。
 
この不合理ともいえる規則をおのれに課すのはやや幼稚染みた行為である。
しかしこのやや幼稚染みた行為は人生を彩るものである。
 
たとえば美学、たとえば信条も、この自分ルールの延長線上にあるものだと思うからである。
 
こう書いてしまうと本当に美学や信条が人生を彩るのかって話になってしまうかもしれないが、
まぁそれは彩ると仮定して話していこう。
 
何でもないと勝手に思っている日常に色がつく行為なのである。
 
たとえば左足から踏み出すことを決めている人は、
左足から踏み出せば気分が良くなるし、右足から踏み出せば気分が悪くなる。
しかし気分が悪くなるからこそ気分が良くなるときの価値をより高く感じることができる。
 
日常に簡易な山と谷を持って来ることにより、無味乾燥としない生活を手に入れることができるのである。
そう、日常の色付けだからこそ罰則にしても取り返しのつくものであったりするのである。
 
たとえば、道路の「とまれ」を踏んだら家族に死が訪れるといった自分ルールを定めた人を知っているが、
その解除法は電柱にタッチすることだったりする。
おそらくその日の内ということでもないだろうから、
毎日気がついたら電柱タッチしていれば、
家族はそれによって死ぬことはないということなのだろう。
なぜそんな理不尽な自分ルールを作ったかは聞いていないが、
おそらく家族が死んでほしくない気持ちが高じて、
「とまれ」を踏まない限り死なないというまじないをかけたのだと思う。
 
こうなってくると色付けどころか祈りといった要素も組み合わさっているのではないだろうかとも思われるが、
ゲン担ぎやジンクスといった要素もあると思えば、
自分ルールといった言葉もさして特異なものではないと思うようになるかもしれない。
まぁ、わざわざ自分ルールという言葉を使う必要がないのではと思うかもしれないが。
 
なんで自分ルールという言葉について適当に書こうと思ったかといえば
昔読んだあだち充の短編漫画を思い出したからである。
主人公は背が高く目出度いことでもなければ酒も飲まないタイプで、
いや、これは『ショートプログラム』を読んで確認してほしいので書かないでおくか。
僕がラブコメを好きになった原因の一つの漫画であるので機会を見つけて読んでほしい。
自己肯定をする漫画を好きになったのは高橋葉介の「アウトサイダー」を読んでからだが。
あれは孤独感から他者とのかかわりを求めたものであると感じている。
そのことは自分の属性を他者評価に依存している様からも受け取れる。
 
おっと、話がそれた。閑話休題
 
まぁ最終的に何が言いたいかといえば、
他者に押し付けない限り自分ルールを作っていこうってことである。
特にさびしい人にはお勧めである。
 
ちなみに自分の自分ルールは
老若男女を問わず眼鏡をかけている人を見たら微笑むことである。