天罰だ神罰だ仏罰だと時々耳にするのだが、罰とはいったいなんだろうか。
個人的には「対等なものの間での取り決めを破ったものに対する懲らしめ」だと思っていた。
それなので上記の天罰だ神罰だ仏罰だのが胡散臭くてたまらなかった。
何で目上の者が勝手に決めたものを破ったからといって懲らしめられなければいけないのか。
天とは一体なんなのだ。
神とは一体何を指すのか。
仏が罰を下すものなのか。
ある中国が舞台の歴史小説では天とは民心を指しているとなっていた。
神が創造神で全知全能ならそもそも取り決めを破るように人を作るのがおかしいとの疑問が消えない。
日本の神は基本的に祟る存在だが、それとて罰ではないと思う。もっと感情的なもの、怒りに触れたがゆえのことだと自分は考える。
そして仏は慈悲以外の執着がありようがないはずなので罰すること自体がナンセンスだと考える。
罰とは同じ主権を持ったもの同士でのみ行われるべきだと自分は考える。
また罰がこの社会にあるのならば取り決めを物心がつくころには叩き込むべきだと考える。道徳や良心は人個人によるものであり千差万別なる物だと考えるからである。
小3ぐらいまでに叩き込み少年法の刑罰の対象もそれに伴い10歳ほどに引き下げるべきだと考える。
取り決めを知らない人を罰するのはアンフェアで効果の薄いことだと考えるからである。
現在、法律は知らないでは通らないくせに義務教育でほとんど教えないのはアンフェアだと思う。
 
罰の存在は人の上に取り決めをおくことにより成り立つと考える。
対等なもの同士でない罰は暴力でしかないゆえに、罰するものと罰されるものが対等であるためには取り決めに出張ってもらうのが一番だと考えるからである。
ガス室のガス噴出ボタンを押す人や絞首台の床の扉を開けるボタンを押す人にしてもその人が殺人罪に問われないのは取り決めの代行者だからである。
 
 
 
自分でも何を書いてるかわからなくなってきたから言いたかったことをまとめる。
1.罰は対等なもの同士での取り決め違反者に対する懲らしめ行為であると自分は考える。
2.対等なもの同士でない取り決め違反者を罰するのは暴力だと自分は考えている。
3.対等であるために物心がつくころには取り決めを叩き込むべきだと自分は考えている。
4.取り決めを叩き込むのだから叩き込まれたものについては罰を含めて対等に扱うべきだ。
5.罰の主体は取り決めであり実際の執行者は代理人であると自分は考えている。
6.執行者は代理人に過ぎないので破った取り決め以外のことについては違反者を対等に扱うべきである。
7.天罰はともかく天誅神罰や仏罰は単なる暴力なのでこれらの言葉を使う人は胡散臭い。
8.罰を受ける覚悟がないやつは取り決めを破らないで欲しい。
 
 

8つは自分にはまとめられる量ではなかったな。
2007年現在の自分でも無理だ。
自由連想法的な思索だからしょうがないか。